カンボジア王国

カンボジア王国

1993年、国連監視の下で選挙が行われ、シハヌークが政権に復帰。憲法を改正して立憲君主国として自ら王位に復した。内戦は一応収束し、国土の復興、政治の安定などが進められている。

UNTACのもとで 1970年からのカンボジア内戦は、パリ和平会談の結果、1991年10月23日カンボジア和平協定が成立してようやく終結した。その和平協定により、国連の国連平和維持活動(PKO)の一環として、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)がカンボジアの復興にあたることになった。

カンボジア王国の成立 1993年、暫定統治機構管理下での総選挙が行われ、ポル=ポト派はボイコットしたが大きな混乱なくシハヌークの率いるフンシンペック党が第一党となり、5月に暫定政府が成立、新憲法が制定されて1993年9月に立憲君主国としてカンボジア王国が復活した。国王にはシハヌークが復位した。
カンボジア国旗 カンボジアの国旗は、かつてのポル=ポト政権下の「民主カンプチア」では共産主義を表す赤地の中に黄色でアンコール=ワットが描かれていた。ヘン=サムリン政権のもとで「カンボジア人民共和国」が1989年に「カンボジア国」に改められた時には、上半分が赤、下半分が青、中央に黄色いアンコール=ワット、と変更された。さらに、1993年の「カンボジア王国」となって、現在の上下を青地、中を赤地にして、中央にアンコール=ワットを白く浮かび上がらせる図柄になった。

フン=セン政権の成立 憲法の規定に基づいて実施された選挙の結果、ラナリット第一首相(フンシンペック党)とフン=セン第二首相(人民党:旧プノンペン政権)の2人による連立政権が成立した。しかし、王党派の系統を引くラナリットと、旧ヘン=サムリン政権の首相だったフン=センの主導権争いが間もなく表面化した。
 1997年にはフンシンペック党と人民党の両派による内戦が起こったが、人民党が勝利し、フン=センが権力を獲得、ラナリットは国外に逃亡した。それ以後はフン=セン政権は安定した政権を維持し、1999年4月には東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟、さらに2004年には世界貿易機構(WTO)に加盟して、資本主義市場経済の導入に努め、東南アジア諸国の一角を占めている。なお2004年にはシアヌーク国王が引退し、シハモニ国王が即位した。また、この間、ポル=ポトもジャングルの中で死去し、他の指導者も相次いで政権側に投降、ポル=ポト派も消滅し、現在はポル=ポト政権下の大量虐殺の責任についての裁判が断続的に行われている。

参考 カンボジア・カンプチア・クメール

(引用)現地の人は、自らの国を「カンプチア」と呼び、そう発音する。「カンプー」という神様の「チア」=子孫というほどの意味だそうである。「カンプチア」を植民市支配したフランス人は、この国の名前を「カンボージュ」と発音して表記し、英語国民は、このフランス語なまりの「カンボージュ」から「カンボジア」という英語にしたようだ。基本的には、カンボジアもカンプチアも同じである。
 クメールは、国全体を表わすカンボジア=カンプチアより、多少狭い民族的な概念で、多数民族であるクメール民族とその言語・文化に関連して使われる。クメール語とか、クメール文化とかいうようにである。広い意味でのカンボジア国民=カンプチア国民は、多数民族であるクメール人だけではなく、中国系、ヴェトナム系、タイ系、チャム・イスラム系、山岳民族などの少数民族をふくめた全体の人々を指す。
 なお各時代の正式国名は、・・・次のようになっている。
 シハヌーク時代「カンボジア王国」Kingdom of Cambodia
 ロン・ノル時代「クメール共和国」Khmer Republic
 ポル・ポト時代「民主カンプチア」Democratic Kampuchea
 ヘン・サムリン時代「カンプチア人民共和国」People's Republic of Kampuchea
 1989年から「カンボジア国」State of Cambodia
ということで、英語にした時は、カンプチアと称した時代は、社会主義的な体制を感じさせるという。またロン・ノル時代が、狭い意味での「クメール民族主義」であることは、国名の選び方からもうかがえる。<熊岡路矢『カンボジア最前線』1993 岩波新書 p.46-45>

 その後、1993年に立憲君主政となり、シハヌークが国王に返り咲いた。従って現在の国号は「カンボジア王国」である。シハヌーク国王は2004年に退位、ノロドム=シハムニ国王が即位した。

タイとの国境問題 カンボジアは北西側にタイと接しており、両国間の国境には未確定の部分かかなりあるため、現在でもたびたび国境紛争が起きている。その象徴的な出来事が、2008年に起こったプレアビヒア寺院事件(プレアヴィヒア、プレアビヘアとも表記)であった。


カンボジア プレアビヒア寺院
(トリップアドバイザー提供)

プレアビヒア寺院事件 
プレアビヒア寺院 Preah Vihear (プレア=ヴィヒア、「神聖な寺院」の意味)は、カンボジアのタイ国境に接したところにあるクメール王国時代のヒンドゥー教寺院でシヴァ神を祀り、アンコール=ワットよりも以前の9世紀に建造が始まった古い歴史を持つ貴重な遺産であった。かつてはポル=ポト政権がこの一帯を占拠していたので近づくことはできなかったが、1998年までに同派が壊滅したため、観光客にも公開されるようになり、2008年にカンボジアが世界遺産登録を申請、タイ政府も同意して登録された。ところが、この寺院はタイ語ではカオ・プラビーハン寺院(これも「神聖な寺院」の意味)と言われ、自国領内にあると意識されていたため猛反発が起き、カンボジアが封鎖した寺院にタイ人が侵入したことをきっかけに国境線は封鎖され両国軍が衝突する事態となった。
 両国政府の折衝で軍事衝突は間もなく沈静化したが、プレアビヒア寺院をめぐる両国の火種はなかなか消えず、2010年にもタイのバンコクで政府の対応を批判し「カオ・プラビーハンを取り戻せ!」との標語を掲げた大規模なデモが行われた。カンボジア側では道路整備など、プレアビヒア寺院の観光開発に力を入れている。朝日新聞 2010年12月11日記事などによる → 世界遺産 カンボジア プレアビヒア寺院

フン=セン政権の開発主義 
2008年の総選挙で人民党は123議席のうち90議席を獲得、フン=セン首相は安定した基盤の上で経済開発を推進、一人あたりの国民所得を2000年度の288ドルから2010年の830ドル、2015年には1140ドルへと15年で4倍に引き上げた。長期政権のもとで経済開発を進めるという開発独裁の特徴を有しており、カンボジアは30年遅れて登場した開発主義国家と言うことができる。<岩崎育夫『入門東南アジア近現代史』2017 講談社現代新書 p.165>


注:世界史の窓より引用

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