アンコール朝

カンボジア(1) 真臘・アンコール朝

クメール人がメコン川中、下流に建設した国家。アンコール朝の時の12世紀が全盛期。

東南アジア 7~8世紀
カンボジア王国(真臘)は地図中のaの範囲

 東南アジアの大陸部(半島部)の中心部、現在のカンボジアの一帯。この地域の民族であるクメール人は、ベトナム南部の扶南がメコン下流の海岸部で活躍したのに対し、メコン川の中流域の山岳部で活動していた農耕民であった。クメール人は6世紀以降有力となり、7世紀に扶南を滅ぼし、カンボジア王国(クメール王国ともいう)を建設した。中国ではこの王国を「真臘」と言っている。
 地図②の7~8世紀ごろのカンボジア(真臘)は、メコン下流域の扶南を滅ぼし、現在のベトナム領コーチシナを含む範囲を支配していたことに注意すること。

中国名の真臘
真臘の語源についてはわかっていない。唐以降の中国各王朝と交渉を持ったカンボジア王国を真臘といい、8世紀頃に陸真臘と水真臘に分裂、ついでアンコール朝が起こるがアンコール朝も中国では真臘といわれた。13世紀末にカンボジアを訪れた元の周達観が著した書物も『真臘風土記』という。

インド化 
この真臘も「インド化」した文明を持ち、ヒンドゥー教のシヴァ神・ヴィシュヌ神信仰を受け入れた。またインドの文字を取り入れたクメール文字を用いていた。8世紀中頃、北の陸真臘と南の水真臘に分裂したが、9世紀以降はアンコール朝のもとで全盛期を迎えた。

カンボジアの全盛期 アンコール朝 
アンコール朝の12世紀前半にスールヤヴァルマン2世はチャンパーなど周辺を征服し、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神を篤く信仰して壮大な寺院建築であるアンコール=ワットを建設した。また中国の宋に使節を送り、その朝貢国となった。その死後、一時衰えて首都アンコールをチャンパーに占領されたが、12世紀後半、1181年に即位したジャヤヴァルマン7世は首都を奪回し、同様に征服活動をおこなって版図を最大に広げ、都城であるアンコール=トムを再興した。現在見る東南アジア文明の代表的な文化遺産であるアンコール=トム周辺の多数の仏教寺院は、ジャヤヴァルマン7世は仏教徒であったことから盛んに建造されたもので、このときアンコール=ワットも仏教寺院に造り替えている。
 アンコール朝時代のカンボジア(クメール王国)は、12世紀にその歴史上最盛期を迎えた。領土は現在のカンボジアの周辺、南ベトナム(メコン=デルタ)、ラオスの大部分、タイの東部を含み、インドシナ半島最大最強の国家となった。現在のベトナム最大の都市ホー=チ=ミン市(サイゴン)、ラオスのビエンチャン、タイのバンコクもクメール王国に含まれていた。
 しかし、13世紀になるとアンコール朝王室の内紛と、西に起こったタイに圧迫されたことで、次第に衰退していった。14世紀にはタイのアユタヤ朝の侵攻を受け、1431年に都アンコールを占領され、プノンペンに首都を遷した。そのため放棄されたアンコール=ワットなどのクメール文化の宝庫は深いジャングルに覆われて忘れ去られることになった。

日本町 
16世紀~17世紀の初め、朱印船貿易が盛んだった時期に東南アジア各地に生まれた日本町は、カンボジアのプノンペンやピニャールにもみられた。また、アンコール=ワットには1632年に森本右近大夫という人が参詣したことが、その回廊への落書によって判っている。

タイの支配 カンボジアにはプノンペンに王が存在するものの、一地方勢力と言った状況となり、東側のベトナムと西側のタイがその支配権をめぐる争いが続いた。
 タイのアユタヤ朝はビルマのコンバウン朝の攻撃を受けて滅亡したが、1768年タークシン王がビルマ人を撃退し、独立を回復した。タークシン王は余勢を駆ってカンボジアに進出し、アンコール=ワットのあるシュムリアップなどを併合した。タイではこの時以来、アンコール=ワットはタイ領にあるという意識を持ち続けている。次のラタナコーシン朝を建てたチャクリ(ラーマ1世)もこの地の支配を続けたため、カンボジアは西はタイ、東はベトナムの支配権に入り、カンボジア王は両国に従属して朝貢するという形となった。

ベトナムによる侵略 10世紀にトンキン湾地方に建国されたベトナムは、インドシナ半島の東海岸沿いに勢力を南下させ、黎朝の17世紀にはフエを本拠とした地方政権阮氏がカンボジア領のメコンデルタ(コーチシナ)に進出し、ベトナム人の入植を進め、広南(クァンナム)国と称した。ベトナムはその後西山の乱で混乱したが、その中から台頭した阮福暎が、1802年までにベトナムの統一に成功し、コーチシナを併合、その地方の最大の都市サイゴン(現在のホー=チ=ミン市)はベトナム(越南国)領となった。この越南国阮朝がメコンデルタに支配を及ぼし、さらにカンボジアにも強い影響を及ぼすようになったが、カンボジアでは現在でもメコンデルタは自分たちの領土であったものをベトナムに奪われたという意識が強く、それが現代の両国関係が悪化した時に持ち上がってくる。


 

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