2020年にキリングフィールドを訪れました。ショッキングな内容でしたが、事前に少し予習をしていたため覚悟はできていました。

カンボジアの一部を知っただけですが、私が生まれた後に起こった出来事から目を逸らすわけにはいきません。日本語ガイドもあって一人でゆっくり回りました。
もちろんですが、地元の方はキリングフィールドなどとは呼びません。

ポルポト・クメールルージュとキリングフィールド

カンボジアを悪夢に落とし入れたポル・ポトとは

ポル・ポトとは1975年4月17日にカンボジアで大量虐殺共産革命を起こした中心人物です。彼の一族はカンボジア王室と関係がある家柄でした。当時カンボジアには民族主義が台頭しアンコールワットに象徴されるクメール王国の栄光を復活させようという機運が高まっていました。彼はこのような雰囲気に大きく影響された様です。エリートコースを歩んだポル・ポトは小学校時代、支配階級であるフランス人やベトナム人官僚の子供と一緒に授業を受ける事になります。その後一族のコネを使い奨学金を得てフランスへ無線工学を学ぶため留学する事になります。この留学中にポル・ポトは共産主義に傾倒していき毛沢東を崇拝していたそうです。帰国後に教師となった彼は教師仲間で革命理論を推進します。その後ポルポトは、中国の支援を受けて、カンボジアの社会を破壊し純粋な共産主義社会に変えようとして革命を起こしました。国を掌握した後は教師仲間までも死を持って断罪してしまいます。ポルポトは、教育を受けたことがない農村部の青年で軍隊を組織します。この時代カンボジアでは人口の8割が貧困に喘いでいました。その原因は全て都市住民のせいで苦しみが蔓延していると青年軍隊を洗脳します。彼は労働者が上に立つ社会の為に都市生活者の財産は没収されるべきだと考えました。全ての人にこれまでの信仰文化を捨てさせ、クメールルージュ「ポルポトの軍隊」に服従洗脳しようとしたのです。

なぜ多量虐殺が起きたのか?

ではなぜ大量虐殺が起きたのでしょうか。ここでポル・ポトの歪んだ性格が顔を覗かせる事となります。彼自身、国家から奨学金を得て留学したにもかかわらず反体制的運動に参加した経験から、自らの政治体制の矛盾を見抜きうるインテリ階級を極度に恐れ、弾圧しました。医者や教師を含む知識階級は見つかれば「再教育」という名目で呼び出され次々と殺害されました。中にはメガネをかけているだけで処刑された人もいたそうです。

1975年の革命と多量虐殺が行われた場所、キリングフィールド

1975年にポルポトの軍隊がプノンペンに入ります。彼の軍隊はクメールルージュ・赤いクメールと呼ばれました。ここにおいてのクメールとはカンボジアの中心的民族で赤は共産主義を表しています。軍隊はプノンペンを制圧し48時間以内に学校・会社・宗教施設・娯楽施設・病院・工場・警察署を封鎖し市内から全ての人を強制退去させ、プノンペンの人々は家族はバラバラにされました。わずか3日の間に町から人が消えたと言われています。

人々は集団の農場と呼ばれる場所で昼夜を問わず休みも食事も与えられず強制労働させられました。ポルポトは純粋な共産主義を信奉し、労働者が上に立つ社会を目指しました。都市生活者のマルクスでいうところのブルジョア達から財産は没収されるべきだと考えました。

内戦内紛やベトナム戦争でアメリカの爆撃も受けていた為、国力が低下していたこともありクメールルージュの革命は成功してしまいます。

次にポルポトは計画の邪魔になる人々全てを抹殺し始めました。それは自分の家族も例外ではなかったそうです。結果、3年8カ月と20日の間におよそ300万人もの人が虐殺されました。その虐殺の舞台となったのがカンボジアの各地にあるキリングフィールドです。今回私達が訪れたキリングフィールドでは2万人が殺されたそうです。悪夢のような現実です。

ちなみに、現在のカンボジアの平均年齢は25歳だそうです。クメール・ルージュの虐殺でカンボジア国民の3分の1以上が命を落としたからです。確かに街で見かけるお年寄りの数は少なかったです。カンボジア人の大らかで明るい姿を見ているとなかなか想像出来ませんが、40代以上の人は大量虐殺を経験してきた人たちということです。